眼鏡概念

適温探し

毒にも薬にもならない話

思考vol.2 〜日常・非日常〜

幼稚園から帰ってきた甥っ子と遊んだり、父親と晩酌したり、成人してから初めて迎えるゆったりまったりとした時間を過ごしています。ここ数年は年末年始しか実家に帰らないような生活をしていたので、テレビで特番をやってないだけでなんだか不思議な気分になります。流れることをやめて初めて気づいたけど、家族と過ごす本当に何気ない時間もちょっと前までの自分には当たり前どころか、作るのが難しいものだったんだなぁと思わず目を細めます。これを日常にしていいのか非日常にしておいたほうがいいのかはなんとも言えませんが。

 

自分が住んでいる場所の周辺でしか日常は作れない。

 

わざわざ太字にするまでもない当たり前のことなんですが、なんだか最近そういうことを思います。住む環境を変えたからでしょうか。それも1日2日で日常化するものではなくて、体に馴染むまでにそれなりに時間がかかる。なんてことを今現在日常と非日常の間でふよふよしながら考えています。家族が過ごしている日常の中にお邪魔させてもらってる、うまく伝わる気がしないですが今はそんな感じ。ずっと実家で生活して、近辺で働いてたらそんなこと考えることもなかったはずなので、住環境が人に与える影響は計り知れません。

 

そもそも日常、非日常とは?

 

なんなんでしょう。多分こんなこと考えられるのも間にいる今の時期くらいで、大半の日常を過ごしている人は意識もしないと思います。僕も「非日常=海外旅行」くらいの認識でした。僕の田舎はちょっとした海外よりも不便な地域にあるので、帰省も立派な非日常。「日常にあらず」という言葉の通り、ここではないどこかに非日常が転がってるのかもしれません。じゃあここではないどこかには何があるのか。少ない経験とない知恵を絞って、抽象論を繰り広げていきます。まず当然そこには「日常にないもの」がある。日常にないものって何。面白さ。刺激。いやでも実家に刺激はなかった。じゃあ何がある。ストレス解消。安らぎ。確かにそれは実家にあった。なぜ安らぐ?日々の喧騒から解き放たれるから。それか。

 

ライブ感満載で書きましたが、普段何かを考える時は大体こんな感じでずぶずぶのめりこんでいきます。別にそれが言いたかったわけじゃなくて、今現在この記事を見切りで書き進めているだけなのですが。読みづらい文章でごめんなさい。今後はなるべく気をつけます。さて置き、非日常にあるものは刺激安らぎだけど、この二つが両立してるのがなんだかすごい。言い換えるなら日常には刺激と安らぎがないことになってしまいますね。今これを読んでる皆さんがどうかはわかりませんが、僕はそうでした。刺激もなければストレスも溜まる、そんな日常の中で常に非日常を求めていました。

 

刺激と安らぎのある日常を過ごすためには

 

書きながら思ったんですが、子育てってまさに刺激と安らぎの日常なんでしょうね。子供が生まれた友人や、甥っ子を見る家族の顔を見てるとそう感じます。なので皆さんどんどん子作りをしましょう。なんてこと簡単に言えるわけじゃないし、もっとこう気軽に、もう少し広い範囲で刺激と安らぎ溢れる日常をつくれやしないものかと頭を悩ませています。日常の非日常化とでもいいましょうか。さらに一歩進んで非日常の日常化までいけたら最高です。言葉遊びみたいになっていますが、僕は日常の非日常化と非日常の日常化は異なるものだと思ってます。前者は単発(催し)のイメージで後者は連続(生活)のイメージ、で伝わりますか?無理ですか?

 

日常にイベントを起こしてどんどん非日常を作り出しつつ、その非日常をだんだん日常にしていく。そこに僕が考えるちょっと面白い日常はあるのかな、なんて甥っ子を視線の片隅に置きながら思ったのでここに書き記しておきます。自分が住んでいる場所の周辺でしか日常はつくれないなんて思い込みでしかないことを、非日常の日常化によって証明できたらこれ幸い。