眼鏡概念

適温探し

毒にも薬にもならない話

孤独について書くことで文才のなさを知る

文章を書くときや考え事をするときはなるべく一人の環境をつくるようにしている。

最近は一人の時間が増えたので、必然的にパソコンに向かう時間が増えた。良いことなのか悪いことなのか。

 

糸井重里氏のonly is not lonlyという言葉が大好きだ。書籍だったかほぼ日のサイトだったかは忘れたが、初めてこの言葉を見たときにああ世の中にはこんなに美しい表現があるのかと、感動のあまり溜息を零した。周囲と物理的な距離をとって自分の時間が増えた今、改めてこの言葉の持つ力がなんとなくわかったような気がしないでもない。そんなことを考えながらBUMP OF CHICKENを聴いていた。

 

孤独を知ったからまた出会えた

孤独じゃない

『オンリーロンリーグローリー』

 

最近はユグドラシルというアルバムに毒されている。引っかかる曲は日によってまちまちだが、今日は2曲目に収録されているオンリーロンリーグローリー、特に上記引用箇所の刺さり方がすごい。糸井氏の言葉が頭に浮かんできたのも多分そのせいで、他にも「一人の」とか「孤独な」とかそういった類の語彙が引き出しの中からぴょんぴょん飛び出してきている。

 

AのおかげでBを知る

熱が出たりすると気付くんだ

僕には体があるって事

鼻が詰まったりすると解るんだ

今まで呼吸をしていた事

『supernova』

 

AがあったからBに気づくという構図をBUMPの歌詞でよく見かける。おおよそ突発的に生じたであろうAという状況をBという発見に昇華してしまう、藤原基央の天才的発想転換能力。その思考回路がただただ羨ましい。欲しい。

 

そもそも孤独とは?

話をオンリーロンリーグローリーに戻す。孤独を知ったから「また」出会えたと藤原は歌う。この「また」の2文字が付くだけで意味合いがガラリと変わってくる。孤独じゃない状況とは前にも遭遇し、そこから一旦離れて孤独になっている。そして再び孤独じゃない場所に帰ってきた。この孤独を知って戻ってくる過程に人が人を大切に思うヒントが転がっているような匂いがした。

 

これはもう個人的な見解だけど、人は一人では孤独になれないと思う。余程のことがない限り、生きている中で必ず誰かと関わる。今これを目にしている時点で関わっているし、そうじゃなくても部屋から出たら誰かに会う。少しずつ繋がって関係性ができていく。家族や、友達、恋人。そういった相手がいて、そこから離れることで初めて寂しさや怖さを知っていく。誰とも会わなければ、そもそも孤独になることすら不可能だ。なんとなく一人が寂しいと思うのは、一人じゃない時間を覚えているからこそなんだ。

藤原基央的転換を用いるなら、みんながいるから孤独を知る。うーん、いまいち。

 

孤独を知ることは決して悪いことじゃない。むしろものすごく健全な感情だと思うし、ポジティブに受け入れていきたい。孤独を知っているからこそ誰かといる時間の有難みに気づくことができる。それこそ宝石や魔法のように。そしてそんな有難みが記憶のどっかにあれば、きっと一人でいても大事な人の存在をいつも忘れずにいられる。そうなれたらどこにいても怖くない。

 

また孤独な気持ちが全くなければ、そもそも人は集まらない。言葉を変えれば人が集まる場所には必ず何かしらの孤独がつきまとっている。その孤独をうまくコントロールできたら面白い環境ができる気がするし、そんな環境をつくることが孤独に対する処方箋になり得るんじゃないかなとほんのり思う。試してないからわからないけど、試してみたい。