眼鏡概念

適温探し

毒にも薬にもならない話

思考vol.5 〜温度感〜

九州に戻ってきてから友人と話す機会がめっきり減った。電話はかけるのもかけられるのも得意な方じゃないので、やり取りはもっぱらLINEのみ。久しく声を聞いていない。

 

その代わりと言ってはなんだが、世間一般的にインフルエンサーと呼ばれる人たちや世間一般の人たちの記事を眺めたり読んだりする機会が増えた。国民総発信時代、とは言わないまでもかなりの数発信がある。探さなくても面白いメディアは続々と出てくる。どこにいても世界は回っていることを感じられる良い時代。

 

突拍子もなく持論をぶち込むが、何かを発信している人は総じて熱い。いやいやそんなことないですよという人もいるとは思うが、熱量がないとこんな大変かつ面倒なことを続けるのはむずかしい。同じ時間でhuluでひたすらネットドラマ視聴していても良いのに、発信に割いている。それだけでもう無条件に好きになる。そしてそういう人たちと自分をどうしても比べてしまう。そんなことをしても意味がないのは重々承知しているが、それでも比較してしまう。不器用ですから。

 

温度感の話

僕は色々な物事の温度感を大切にしている。中でも自分の温度はぬるいくらいの状態を常に保つように意識している。熱すぎず、冷たすぎずの適温。のぼせないし、風邪もひかない、ちょうど良い水温のお風呂をイメージ。もしくは猫舌の人がフーフーせずに飲めるくらいのホットコーヒーをイメージしてほしい。書いといてなんだが、後者はちょっと違うかもしれない。

 

話を戻すが、世間にうようよいる熱い人たちと己を比較する機会が増えたからか、最近自分が適温だと感じていたポイントがぬるすぎる、むしろ冷たいような気持ちでいっぱいになっている。要因はいろいろ考えられるが、ここ最近で住環境、関わる人達、発信方法なんかが一気に変化したことが大きく関与している気がする。

コミュニケーションにおける発信(アウトプット)は放熱のための行為。話すことによって熱を発散し、逆に聞くこと(あるいは見ること)によって熱を蓄える。そういういわゆる熱量のやり取りの中で、今は圧倒的にアウトプットが足りていない。だからこんなクソみたいな文章をひたすら描いて熱を逃がしている。

 

身体的恒温と精神的変温

人類が恒温動物だというのは今更どうこう言う必要のない事実だ。よほどのことがない限り、地球上のどこで暮らしても僕らの平熱は36度前後に保たれている。その範囲を出てしまうと体調を崩してしまう脆い生き物、それが人間。

とはいえここまで書いてきたような精神的な熱量や温度感の話になると、僕らの平熱は状況や環境、接する人によって簡単に変わってしまう。最初は「あれ?熱出たかな」とか、「おや、肌寒いな」とか違和感を感じるけど、そのうちその温度に慣れてしまう。精神的には変温動物だと考えることができそうだ。何かを続ける熱量を保つのが難しいのもこういう切り口で考えると、何か見えてくるかもしれない。

 

放熱したので終わります

対面でのコミュニケーションがもっとも熱交換に適している手段。これは言わずもがなで、ネットを介したやり取りではある程度補完することはできても、勝ることは今の所できない。とはいえとても便利な時代で、ネット上でインプットもアウトプットも簡単にできる。温めようと思えば世界中の人たちがこれでもかという程温めてくれるし、ネット世界には地域的な差もない。集中力が切れてなんの話だかわからなくなってきたので、簡単に整理する。

  • 自身の精神的な適温はいる環境によって変わる
  • ネット上の環境はどこにいても自身で変えられる
  • インプットで熱を蓄え、アウトプットで放熱する

 

また、精神的には変温動物だと言ったが、その適温はなるべく一定の幅におさめておきたい。恒温になることはなくても、それに近い状態を保つことが安定に繋がるような気がする。そんな気がするのはきっと恒温動物だからなんだろうな。