眼鏡概念

適温探し

毒にも薬にもならない話

バースデーサプライズが苦手な人のためのHAPPY

本日4月12日。

 

そう、我らが藤原基央大先生の誕生日。コンビニからいちごサンドが消え、「ふじわらせんよう」とパッケージに書かれたそれが圧倒的に増える日。ぼくがコンビニのマーケティングをやっていたら普段より多めに仕入れるし、ぼくがコンビニのマーケティングをやっていたらこの日のためだけに日頃から周囲のBUMPファンに対して執拗なマーケティングを行う。間違いなく落第点なのでコンビニのマーケティング担当にはなれない。

 

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ファンを虜にする“ふじわらせんよう”いちごサンド 

 

朝からずっとHAPPYを聴いていた。

 


BUMP OF CHICKEN『HAPPY』

 

世間一般でよく歌われているバースデーソングは、あなたのためにやっているよというのがこれでもかとばかりに強調されている。散々TO YOUを重ねた上に、さらに押し付けがましくDEARを挟んで、トドメのTO YOU。僕はそれがあまり得意じゃない。

 

お店で美味しいご飯を食べている時にいきなり照明が暗くなって、一瞬の沈黙の後に大音量で「ごーぜんれーぃじをすぎぃーたぁーらー」というよく聴くメロディが流れ出し、手拍子する店員を引き連れて笑顔のバイトリーダーがバチバチなってるよく分からない手持ち花火が刺されたケーキを持ってきて、周りにいる他のお客さんもちょっと手拍子してくれるタイプのやつ。ぼくはそれがあまり得意じゃない。自分の誕生日が近づいた時にちょっとおしゃれなダイニングで飲み会があるときは少なからず警戒するし、突然照明が暗くなったらああやっぱり来たかと身構えるし、いざ身構えて自分じゃなかった時の恥ずかしさったらない

 

お祝いしてくれる気持ちはとても嬉しいのに、それを素直に喜べないしょうもない自分に腹がたつし、忙しい中準備してくれた人たちに申し訳ない気持ちになる。なんならただおしゃれなダイニングでご飯を食べてただけなのにいきなり照明落とされて会話の邪魔になるようなボリュームで音楽流されて、あげく手拍子や拍手まで強制されてしまった他のお客さんたちへの罪悪感でいっぱいになってしまう。たまたま居合わせた彼ら彼女らにしてみればサプライズハラスメントでしかない。

 

そんなこんな余計なことばかり考えるぼくにとって、HAPPYの浮かれてない感じはものすごくありがたい。TOもDEARもでてこない、まったく押し付けがましくないこんなお祝いの仕方があるんだと肩の力が抜けた。バースデーサプライズの時に使われる曲の定番になればいいのになと思う。DREAMS COME TRUEの牙城が高すぎて生きている間にその夢が叶うことはおそらくないだろうけど。

 

特別な日にこそ当たり前のことを

健康な体があればいい 大人になって願う事

心は強くならないまま 耐えきれない夜が多くなった

「HAPPY」

 

「健康な体があればいい」から始まるバースデーソング、斬新すぎる。あなたのためにやっていることを全面的に押し出す他の曲と違い、あくまで自分が思っていることを淡々と歌っている。これならぼくだってなんの申し訳なさも罪の意識も感じずに、純粋に誕生日を喜ぶことができる。確かに健康な体は欲しい、2番の歌い出しにもなっている「膨大な知識」だって間違いなく欲しい。それも大人になればなるほどにそれを求める気持ちは強く大きくなってきた。

 

小さな頃は健康な体が欲しいなんて思うことはなかった。望まなくても、健康だったから。でも年を重ねるごとに確実に着実に体力は衰えていっている。去年できたことができなくなっていく。健康な体という当たり前にあったものが、年々当たり前じゃなくなっていく感覚に襲われる。

 

知識だってそう。小さい頃は自分の世界がすべてで、眼に入る範囲のことを知っていたら生きていけた。でも年を重ねるごとに周囲の世界との関わりが増えて自分の当たり前が当たり前じゃないことに気づく機会が増え、同時に知らないことの量も爆発的に増えた。そんな広がった世界の中で周囲と友好的に保とうと思ったら、その常識を理解しないといけない。理解するためにはまず知らないといけない。そうやって年々知識を求めるようになっていった。

 

健康な体が必要ない人なんてよっぽどのことがない限りいないと思うし、膨大な知識は持ってて困るものじゃない。ただそれを求めるのは当たり前のことすぎて、普段なかなか意識することがない。そういうことを意識する上で、ひとつ歳をとるタイミングはとても適切。大人になったことが可視化される節目の日だからこそ、花火バチバチ言わせて浮かれてるんじゃなくて、こういう当たり前のことをあらためて考えてみるのもいい。

 

ひねくれた表現の裏側

藤原基央の歌詞にはひねくれた表現が時折用いられる。代表的な曲がベル、レム、モーターサイクル。HAPPYもバースデーソングにもかかわらず、そのニュアンスが読み取れる一節がある。

 

悲しみは消えるというなら 喜びだってそういうものだろう

「HAPPY」

 

こんなにも皮肉に満ち満ちた歌詞がサビに使われているバースデーソングを他に知らない。そのくらい際立っているし、もう本当に好き。藤原基央生まれてくれてありがとう。なんてことはさておき、この一節だけ切り取られてもわけがわからないと思うので前後の歌詞で肉付けしていく。

 

優しい言葉の雨の下で 涙も混ぜて流せたらな

片付け中の頭の上に これほど容易く日は昇る

「HAPPY」

 

優しい言葉の雨に濡れて 傷は洗ったって傷のまま

感じる事を諦めるのが これほど難しい事だとは

「HAPPY」 

 

「悲しみは消える」というのは誰かが誰かにかけた優しい言葉のことだろう。この言葉には涙を混ぜることはできないし、この言葉では傷を洗い流す事はできても癒すことはできない。その瞬間をやり過ごすためのうわべだけの言葉だ。そしてそれに対する「喜びだってそういうものだろう」という返答。端的!

 

バースデーサプライズってその瞬間だけ恐ろしく盛り上がるけど、あっという間に終わっていつもの日常、ただのお食事会に戻ってしまう。それが寂しくて、だからあんまり得意じゃない。もっと言うとサプライズに限らず、誕生日がそう。当日は連絡とかメッセージとかそれこそ優しい言葉をたくさんもらうけど、1日経てばもう忘れ去られてしまう感じが寂しい。SNSが流行ってからは特に、うわべだけの優しい言葉が増えた。言葉だけじゃなくていいねやファボ、スタンプにどんどん置き換えられて、それは雨のように日々降り注いでる。

 

瞬間的に満たすことはできても、根本にある寂しさを解消することはできない。そういった思いが、この「よろこびだってそういうものだろう」という一説に込められている。藤原基央はそんな優しい言葉をかける代わりに、「なんか食おうぜ」と歌い、「そんで行こうぜ」と歌い、「僕と一緒に歌おう」と歌う。きっと藤原基央は誕生日じゃなくても同じことを言ってくれるだろう。大事なのは瞬間的に用いられる表面的な言葉じゃなくて、姿勢や態度含めて普段からどれだけ相手のことを考えているかということなんじゃないか。

 

とはいえ誕生日は特別な日

ここまで散々なことばかり書いてきたが、誤解のないようにここで念押ししておく。誕生日サプライズは苦手なだけでお祝いされること自体はとても嬉しい。お祝いのメッセージも嬉しい。毎年日付が変わる前から意味もなくソワソワしている。

 

だからこそ優しい言葉とかうわべだけのTOやDEARとかバチバチの花火だけで終わらせるんじゃなくて、もっと当たり前だけど意識してないことを考えたり、当たり前すぎて伝えられてないことを伝えたり、そういう日にしたい。なんてことを自分の誕生日でもないのに考えさせてくれる藤原基央はやっぱり尊い

 

HBFJ!