眼鏡概念

適温探し

毒にも薬にもならない話

都市の泳ぎ方をゴリラに学ぶ

タイトルに「都市」とか「田舎」が入っている本をついつい買ってしまう。

まんまとやられている感は否めないものの、『都市と野生の思考』は面白かった。

 

 

 

はじめに

哲学者にして京都市立芸大学長の鷲田清一と、ゴリラ研究の世界的権威にして京都大学早朝の山極寿一による対談。

旧知の二人が、リーダーシップのあり方、老い、家族、衣食住の起源と進化、教養の本質など、さまざまな今日的テーマを熱く論じる。

(あらすじより) 

 

都市とは言い換えるなら文化や文明など、人類の知の結晶。野生はその対極にあり、言い換えるまでもなくゴリラ。ゴリラ以上の上手い喩えが思いつかない。それほどゴリラという3文字の単語が持つ破壊力はすごい。迂闊にゴリラというあだ名を友達につけないようにみんなも気をつけよう。

 

人類が抱えている種々のテーマについて、これまでの人はどう考えてきたかという哲学的観点(都市の思考)と人類と違う歴史を辿ったゴリラ(及び類人猿)はどうか?という視点(野生の思考)をベースにして繰り広げられる対話。帯に「知の饗宴!」とあるが、まさしくその通り。共演でも競演でもなく、饗宴している。

 

ネット社会のコミュニケーション

ネット社会では、いざとなったら簡単におりられるというか、リセットできるとみんな思っている。人間の集団でも家族以外は簡単にリセットできるのが現状です。

(第一章「大学はジャングル」より) 

 

今日の都市はネット社会。そう考えてまず間違いない。技術は日々発達し、産業だけではなくもはやコミュニケーションの中心にも科学が介している。そのようなネット社会について鷲田氏は上記引用のように説明し、その上で「そういう社会はやばい」と話している。僕らが日々呼吸レベルで使うようなヤバイと違って、言葉に重みがある。

 

これに関して山極氏は「対面していれば伝わるニュアンスが、ネットだと抜け落ちてしまう。」と述べている。確かにメールを読んでも画面の向こうで相手が喜んでいるか怒っているかはわからないし、Instagramを見てもその人が本当に幸せかどうかわからない。そしてそういった感情は会えばなんとなくわかる。「相手と面と向かっての付き合いをしていない」ことが、簡単にリセットできると思い込む状況を作り出していると山極氏は言う。おっしゃる通り!

 

グローバル社会のコミュニティ

コミュニティは、そこに暮らす人たちが根っこで絡み合うことで成立するものです。何か困ったことがあっても、以前ならたいていは近所のネットワークで解決できた。(中略)あの人に頼んだらいいという、複数の人による重層的なネットワークが機能していた。

(第二章「老いと成熟を京都に学ぶ」)

 

根っことは伝統歴史、文字通りその地域に根ざしているものである。そして地方ではグローバリゼーションによってその根っこが破壊されている。巨大なショッピングモールの進出によって潰れてしまった地元のスーパーや商店街は田舎ではよく見かける光景だ。昨今コミュニティがどこかしこで注目を浴びているのは、どこにも根ざす事ができなくなった個人が増えた結果だろう。

 

コミュニティにおいて、重層的である事は欠かせない要素だと思う。集団の中でたとえAという立場を失っても、B.C.D...と他の役割が残されている事で、個人が特有の存在と成り、組織との繋がりが保たれる。油断したらすぐに誰かに取って代わられる時代において、その安心感は何にも代えがたい。

 

アートという可能性 

鷲田 生きる力をつけるために、コミュニケーション力をつけようみたいな話になりがちなんですが、そこでアーティストならブリコラージュする。つまり、あり合わせのものを使って自分で道具までつくり、なんとかするわけです。

山極 言い換えれば、自分の生活を、自分の感性と力で築き上げていく能力ですね。今のようにすべてが既製品で、人から与えられたものだけで暮らしていたら、生きている実感なんてなくなって当然です。自分では何もつくらず、選ぶだけなんだから。

(第四章「アートと言葉の起源を探る」)

 

ここまでにあげたコミュニケーションやコミュニティに関する危機への対処として、本書ではアートを取りあげている。それはコミュニケーションが簡単にリセットできないということを学ぶ手段になり、コミュニティ内で共感を生むための手段になる。

 

アートを生み出す人のことをアーティストと呼ぶ。上記鷲田氏の引用にあるようにアーティストはあり合わせのものを使い、自分が感じたものをアウトプットしている。作品や事象にインスピレーションを受けることによって、新しい作品が生まれる。でもそれはアーティストにだけ求められる能力じゃなくて、僕らの日々のコミュニケーションにも欠かせない。万物を知らない以上、ある程度の想像と創造は必要である。そう言ったセンサーが現代の暮らしの中では衰えていると鷲田氏は心配している。その結果、「選択肢が限られている上、選択肢に入らないものへの想像力が鈍ってしまう。(鷲田氏)」状態になり、結果「世界がクローズドになる」危険性があると言及している。

 

今養うべきセンサー

今の世の中はわからないものだらけじゃないですか。科学の世界だけでなく、社会情勢も、時代の流れも、本当に複雑さを増してきている。何が決定要因なのかわからない状況の中で、不確定要因の相互作用みたいなものだけで、物事が決まっていく。こういう複雑性を増す社会の中で生きていくには、「ここを押さえておかないといけない」とか「ここらあたりが勘所や」とか「こっちに行くとやばい」などどいうアタリをつける感覚が非常に重要になってくる。

(第八章「教養の本質とは何か」)

 

長い引用になった。上記は本書では「センス」という単語でまとめられている。ゴリラと並ぶインパクトのある3文字だと思う。わかるようでわからないし、わからないようでわかる。またこれは「直観力」という言葉でも言い換えられている。センスよりは馴染みやすい。何か予期せぬことが生じたときの瞬間的な閃きがこれからを生きていく上で大事な能力になってくるとのことだ。

 

結び

ネットやSNSによって自分の意見を発信することが簡単になった。というかなりすぎたと思う。いやそれは悪いことじゃない。むしろうまく使いこなせば色々な可能性を僕らに与えてくれる社会にもなった。とはいえ匿名の社会では人々の重層的な信頼関係は生み出すことはむずかしい。そんな社会をどう生きていくか、そのためには何が必要か。そういうことを色んな方向から示してくれる良書だった。あとゴリラについてもちょっと詳しくなれた。今なら愛情を持ってゴリラというあだ名をつけることができるかもしれない。

 

なお、直観力を磨く手段として本書では「山に行くこと」をあげている。登山が趣味の方、おめでとうございます。僕はそうじゃないので何か別の方法を考えます。