眼鏡概念

適温探し

毒にも薬にもならない話

エリートじゃなくても美意識は鍛えたい

本のタイトルに度々騙される。

 

書籍を買う理由はひとそれぞれあると思うが、ぼくの場合は大抵なにか困った時ヒントを探すためにそれをすることが多い。書店に行く時はだいたい頭の中が課題でいっぱいなので、平積みされた本の中でもその課題に関連したキーワードが目に飛び込んでくる。そしてタイトルだけで購入した本の内容に騙される。タイトルがわかりやすければわかりやすいほど、ぼくはその罠にはまる。

 

少し具体的に書くと、「ホニャララするための◯つの方法(習慣)」とかいった類の本には地雷が多い。「ホニャララしないための(以下同)」に置き換えられることもあるが基本的に書いてることは一緒だ。だいたいは「すぐやれ」「続けろ」「無駄を減らせ」に要約されることが多い。

 

もう少し具体的に書くと、そこに「夢を叶える」とか「理想に近づく」とかが付け加えられているといっきに地雷臭が増す。スタンフォードだとかハーバードだとか大学名を冠にしてる本(一昔前はそれがバフェットだったりドラッカーだった。)もやたらと見かけるが、ほとんどが同じことを書いてるので1冊読めばそれで十分。

 

なんというかこの気持ち、「個室居酒屋」で検索して予約したのに、当日案内された部屋が可動式パーテーションで区画されただけだった時に感じるそれに似ている。嘘をつかれたわけじゃないのになんか騙された感。そしてそこに同席者を巻き込んでしまった時の所在なさたるやもう。だから個室を予約する時は細心の注意を払うし、細心の注意を払って予約しても当日店に行く前に「個室ってなってたけど多分半個室みたいなものだよ」と他の参加者に伝えて自らに保険をかけることも忘れない。

 

とはいえすべての居酒屋がそんなお店ではない。中には良い方向に期待を裏切る素敵なお店もある。どうせ半個室でしょって斜に構えて入ったら離れの部屋に通されて店員のサービスも満点、料理も抜群だった時の喜びったらもう。前置きが長くなったけど、今回友人に借りて読んだ本がまさにそれだった。

 

 

この「エリート」は、大衆居酒屋における「個室」とか「創作料理」みたいなものだろう。「世界の」は大衆居酒屋における「完全」という修飾語のように作用している。つまり「世界のエリート」は「完全個室」と読み替えが可能だろう。もうにじみ出る胡散臭さを隠せない。書店でこの本を目にしても、「どうせ半個室でしょ」と斜に構えモードに入ってしまう。良い本なのにもったいない!

 

グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補を送り込む、あるいはニューヨークやロンドンの知的専門職が、早朝のギャラリートークに参加するのは、虚仮威しの教養を身につけるためではありません。彼らは極めて功利的な目的のために「美意識」を鍛えている。なぜなら、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足をおいた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということがよくわかっているからです。

(「忙しい読者のために」(p14))

 

美意識とは

本著では目まぐるしく変動する昨今の世の中においてのサイエンス重視の意思決定の限界と、そんな世の中において意思決定をしていく上での判断基準として美意識の重要さが説かれている。美意識とは物事を判断するためのモノサシ的に用いられ、「真・善・美」に基づいて感覚的に顕されるものである。

 

サイエンス重視の意思決定の限界については幾つか理由が書かれているが、中でも「差別化の喪失(p48)」には納得した。

 

情報処理を「論理的」かつ「理性的」に行う以上、入力される情報が同じであれば出てくる解も同じだということになります。しかしここにパラドックスがあります。というのも、経営というのは基本的に「差別化」を追求する営みだからです。

(第1章「論理的・理性的な情報処理スキルの限界」(p48))

 

上記引用にあるようなパラドックス(矛盾)を解消させるためには何かで差別化を図らないといけない。他の人と戦略が同じ場合に勝つ(差別化する)ための条件として、本著では「スピード」と「コスト」をあげている。同じものであれば早い方がいいし、安い方がいいという評価基準。今日の企業でもまだスピード勝負コスト勝負をしているところはあるし、ぼく自身それを判断の基準に置いてしまうこともしばしばある。そんなじり貧の消耗戦の中で生活している。

 

本著ではそこまで言及はされてなかったけど、この消耗戦には今後必ずAIが入り込んでくる。序盤こそAIを活用できるか否かで差別化できたとしても、すべての企業がそれをやりだすともうスピードもコスト(人件費)も削りようがなくなる。そんな世界でも日々意思決定をして、他者との差別化を図っていかなければならない。そこで重要になってくるのが直感や感性とのこと。

 

誤解してはいけないのが、著者が問題視しているのはあくまでサイエンス重視に寄りすぎているということで、決して分析や論理を軽視して良いということではない。ロジカルな判断基準に片足は置きながら直感とのバランスをとって意思決定をすることが大切で、直感だけに頼って非論理的な判断をすることを著者は「バカ」と一蹴している。

 

直感と感性の時代

著者は美意識を磨くことを「リーダーシップの問題(p180)と述べている。今後訪れるであろう分析とそれに基づく論理的判断が差別化の手段にならない世界では、不確定な直感に頼らざるを得ない場面がどうしても出てくる。そこで意思決定できるかどうか、その意思決定に対して責任を取れるかどうかが今後リーダーに求められる資質の一つになるとのことだ。

 

当然、すべての意思決定(判断)には責任が伴うし、その責任は意思決定者がとらなければならない。となると、なるべく確実な(リスクの少ない)ものを選びたくなるし、結果サイエンスによる意思決定を取りたくなる気持ちもわかる。とはいえ、上にも書いたようにその先にはじり貧の未来が手招きしている。

 

周りになんと言われようと自分が信じる内在的な美意識をもち、それに基づいて意思決定した以上は腹をくくって全責任を取る。そのために美的感覚を鍛え養うことがこれからの時代を泳いでいく上で大切で、冒頭酷評した本著タイトルの「?」に対する答えもおそらくこのあたりになってくるだろう。

 

ただ、直感や感性ってどこまで行っても各自の基準に基づく曖昧なものなので、それを他者に納得してもらうのはむずかしい。ジョブズであれば納得してもらわなくても「こう思う!」でまかり通るのかもしれないが、通常の人がそれを言っても頑固者認定されて相手にされない。自分にカリスマ性があると自負していない限り、「私はこう思うけど、あなたはどう?」くらいのスタンスで考えてた方がいいと思う。反応を見ながらその過程で美意識を養っていけばいい。

 

ちなみに、本著では美意識を鍛える具体的な手段として、「絵画を見る(観る)」「哲学に親しむ」「文学(詩)を読む」といった行為が挙げられている。こんなテーマを肴に居酒屋でお酒片手にゆるっと話したら楽しそう。オープンスペースだとみんな恥ずかしくて白熱した対話ができないかもしれないから、やるなら完全個室居酒屋を予約したい

日本人が熱狂するクールな田舎は作れる?

九州に戻ってくる前に大阪の本屋で数冊本を買った。

 

その中の一冊。クールな田舎をつくるという高い志を持って故郷に戻ってきたわけじゃない。が、いざ戻ってくるとクールじゃない現状がバシバシ目に入る。

 

外国人が熱狂するクールな田舎の作り方 (新潮新書)

外国人が熱狂するクールな田舎の作り方 (新潮新書)

 

 

 

著者、山田拓氏はコンサルティング会社勤務の後、525日間の世界放浪を経て、岐阜県北部の飛騨古川という地域で株式会社「美ら地球」を興している。「なにげない里山の日常」を売りに、サイクリングなどのツアーにやってくる外国人観光客の数は毎年数千人に及ぶ。今日やたらめったら取り上げられているインバウンド向け事業の先駆け的存在。

 

重層的な人間関係

地方での人間関係は、都会よりも重層的です。役所の職員は、同時にご近所さんであり、青年会の会員であり、神社の氏子であったりする。何らかの課題があったとしても、そうした重層的な人間関係の中で、何となく問題が解決していくこともある。

(第二章「日本の田舎は世界に通じる」)

 

重層的という言葉は『都市と野生の思考』にも出てきた。山田氏は奈良県出身なので、自らの地元と異なる田舎を事業のフィールドに選んだ(というより知人の紹介によって結果的にそうなったみたい)。よそ者として田舎に入るということは簡単ではない。山田氏も「帰れ」と拒絶された状況から根気強く何度も通い、やっとそこでの生活を認められるようになった。そしてその地域で重層的な関係性を築きながら、下記のことを書いている。

 

小さなコミュニティにおいて、時には正しさや合理性より好き嫌いが意思決定を左右したり、自身の意思よりも地域の関係性が重要視されたりすることもあるといった、地方社会の現実を深く深く理解する機会となりました。

(第二章「日本の田舎は世界に通じる」)

 

これぞまさに地方社会の現実。親戚やご近所との付き合いを大事にしすぎるくらい大事にする。これは大事にしていないと井戸端で噂されるというネガティヴな側面も持っていて、よくも悪くも狭い環境の中で皆が繋がっている。

 

世界の田舎をクールに

 

現在の日本では、今の世代のことだけでなく数世代先までのことを考えなければ、「危機感」という概念を持ちにくい。

(第六章「日本と世界の田舎をクールに」)  

 

山田氏は「美ら地球」のミッションを下記の3つに大別している。 

 

1.「飛騨をクールに!」

2.「日本の田舎をクールに!」

3.「世界の田舎をクールに!」

 

飛騨をクールにの部分は本著にて事例が詳細に紹介されている。その上で日本の田舎をクールにする方法として、「インバウンド・ツーリズムを中心とした新たなツーリズムの創出に寄与するコンサルティング分野と、それらに従事する人材を育成する教育・研修分野(p165)」という二つの柱を立てている。そしてその視点は講演などによって海外へも広がりをみせているとのことだ。

 

地方出身者であればちょっと郊外に出て畑が広がっている風景を見ると懐かしさを感じてしまうように、田舎の原風景に大きな差はない。つまり田舎の風景や日常を売りにするツーリズムは理屈上他の田舎でも再現可能だ。もちろんそれは簡単な話じゃなくて、アクセス面や周辺の環境、その地域に古くからある慣習など特有の障壁もたくさんある。だからといってなにもせず放置していたらその地域に未来はない。

 

上記の引用にも出ているが、数世代先のことまで考えて物事を行うのは地方創生に限らず大事なことだ。大事なことだけど、なかなかそこまで考えが及ばない。及んで自分の子や孫の世代までじゃないだろうか。僕だってそう。みんなまずは自分のこと、そして次に身の周り、だと思う。その意識を変えるのはむずかしい。

 

結び

前回紹介した『都市と野生の思考』が対話によって様々な今日的テーマの風呂敷を広げていく本だとするなら、この本は実践によってそのテーマの中の一つでもある「地方創生」の風呂敷を畳んでいく本。おもろいことをやってみなはれという京大スピリッツを実際に行動に移した様子が記されている。

 

世界遺産や観光名所がなくても、何気ない日常を別の切り口で捉えることで特別な景色にすることができる。それは外国人観光客相手だけでなく、疲れた都市生活者にも魅力を感じさせることはできないだろうか。どうやったら魅力に思ってもらえるだろうか。

 

shimotch.hatenablog.com

都市の泳ぎ方をゴリラに学ぶ

タイトルに「都市」とか「田舎」が入っている本をついつい買ってしまう。

まんまとやられている感は否めないものの、『都市と野生の思考』は面白かった。

 

 

 

はじめに

哲学者にして京都市立芸大学長の鷲田清一と、ゴリラ研究の世界的権威にして京都大学早朝の山極寿一による対談。

旧知の二人が、リーダーシップのあり方、老い、家族、衣食住の起源と進化、教養の本質など、さまざまな今日的テーマを熱く論じる。

(あらすじより) 

 

都市とは言い換えるなら文化や文明など、人類の知の結晶。野生はその対極にあり、言い換えるまでもなくゴリラ。ゴリラ以上の上手い喩えが思いつかない。それほどゴリラという3文字の単語が持つ破壊力はすごい。迂闊にゴリラというあだ名を友達につけないようにみんなも気をつけよう。

 

人類が抱えている種々のテーマについて、これまでの人はどう考えてきたかという哲学的観点(都市の思考)と人類と違う歴史を辿ったゴリラ(及び類人猿)はどうか?という視点(野生の思考)をベースにして繰り広げられる対話。帯に「知の饗宴!」とあるが、まさしくその通り。共演でも競演でもなく、饗宴している。

 

ネット社会のコミュニケーション

ネット社会では、いざとなったら簡単におりられるというか、リセットできるとみんな思っている。人間の集団でも家族以外は簡単にリセットできるのが現状です。

(第一章「大学はジャングル」より) 

 

今日の都市はネット社会。そう考えてまず間違いない。技術は日々発達し、産業だけではなくもはやコミュニケーションの中心にも科学が介している。そのようなネット社会について鷲田氏は上記引用のように説明し、その上で「そういう社会はやばい」と話している。僕らが日々呼吸レベルで使うようなヤバイと違って、言葉に重みがある。

 

これに関して山極氏は「対面していれば伝わるニュアンスが、ネットだと抜け落ちてしまう。」と述べている。確かにメールを読んでも画面の向こうで相手が喜んでいるか怒っているかはわからないし、Instagramを見てもその人が本当に幸せかどうかわからない。そしてそういった感情は会えばなんとなくわかる。「相手と面と向かっての付き合いをしていない」ことが、簡単にリセットできると思い込む状況を作り出していると山極氏は言う。おっしゃる通り!

 

グローバル社会のコミュニティ

コミュニティは、そこに暮らす人たちが根っこで絡み合うことで成立するものです。何か困ったことがあっても、以前ならたいていは近所のネットワークで解決できた。(中略)あの人に頼んだらいいという、複数の人による重層的なネットワークが機能していた。

(第二章「老いと成熟を京都に学ぶ」)

 

根っことは伝統歴史、文字通りその地域に根ざしているものである。そして地方ではグローバリゼーションによってその根っこが破壊されている。巨大なショッピングモールの進出によって潰れてしまった地元のスーパーや商店街は田舎ではよく見かける光景だ。昨今コミュニティがどこかしこで注目を浴びているのは、どこにも根ざす事ができなくなった個人が増えた結果だろう。

 

コミュニティにおいて、重層的である事は欠かせない要素だと思う。集団の中でたとえAという立場を失っても、B.C.D...と他の役割が残されている事で、個人が特有の存在と成り、組織との繋がりが保たれる。油断したらすぐに誰かに取って代わられる時代において、その安心感は何にも代えがたい。

 

アートという可能性 

鷲田 生きる力をつけるために、コミュニケーション力をつけようみたいな話になりがちなんですが、そこでアーティストならブリコラージュする。つまり、あり合わせのものを使って自分で道具までつくり、なんとかするわけです。

山極 言い換えれば、自分の生活を、自分の感性と力で築き上げていく能力ですね。今のようにすべてが既製品で、人から与えられたものだけで暮らしていたら、生きている実感なんてなくなって当然です。自分では何もつくらず、選ぶだけなんだから。

(第四章「アートと言葉の起源を探る」)

 

ここまでにあげたコミュニケーションやコミュニティに関する危機への対処として、本書ではアートを取りあげている。それはコミュニケーションが簡単にリセットできないということを学ぶ手段になり、コミュニティ内で共感を生むための手段になる。

 

アートを生み出す人のことをアーティストと呼ぶ。上記鷲田氏の引用にあるようにアーティストはあり合わせのものを使い、自分が感じたものをアウトプットしている。作品や事象にインスピレーションを受けることによって、新しい作品が生まれる。でもそれはアーティストにだけ求められる能力じゃなくて、僕らの日々のコミュニケーションにも欠かせない。万物を知らない以上、ある程度の想像と創造は必要である。そう言ったセンサーが現代の暮らしの中では衰えていると鷲田氏は心配している。その結果、「選択肢が限られている上、選択肢に入らないものへの想像力が鈍ってしまう。(鷲田氏)」状態になり、結果「世界がクローズドになる」危険性があると言及している。

 

今養うべきセンサー

今の世の中はわからないものだらけじゃないですか。科学の世界だけでなく、社会情勢も、時代の流れも、本当に複雑さを増してきている。何が決定要因なのかわからない状況の中で、不確定要因の相互作用みたいなものだけで、物事が決まっていく。こういう複雑性を増す社会の中で生きていくには、「ここを押さえておかないといけない」とか「ここらあたりが勘所や」とか「こっちに行くとやばい」などどいうアタリをつける感覚が非常に重要になってくる。

(第八章「教養の本質とは何か」)

 

長い引用になった。上記は本書では「センス」という単語でまとめられている。ゴリラと並ぶインパクトのある3文字だと思う。わかるようでわからないし、わからないようでわかる。またこれは「直観力」という言葉でも言い換えられている。センスよりは馴染みやすい。何か予期せぬことが生じたときの瞬間的な閃きがこれからを生きていく上で大事な能力になってくるとのことだ。

 

結び

ネットやSNSによって自分の意見を発信することが簡単になった。というかなりすぎたと思う。いやそれは悪いことじゃない。むしろうまく使いこなせば色々な可能性を僕らに与えてくれる社会にもなった。とはいえ匿名の社会では人々の重層的な信頼関係は生み出すことはむずかしい。そんな社会をどう生きていくか、そのためには何が必要か。そういうことを色んな方向から示してくれる良書だった。あとゴリラについてもちょっと詳しくなれた。今なら愛情を持ってゴリラというあだ名をつけることができるかもしれない。

 

なお、直観力を磨く手段として本書では「山に行くこと」をあげている。登山が趣味の方、おめでとうございます。僕はそうじゃないので何か別の方法を考えます。