日本人が熱狂するクールな田舎は作れる?
九州に戻ってくる前に大阪の本屋で数冊本を買った。
その中の一冊。クールな田舎をつくるという高い志を持って故郷に戻ってきたわけじゃない。が、いざ戻ってくるとクールじゃない現状がバシバシ目に入る。
著者、山田拓氏はコンサルティング会社勤務の後、525日間の世界放浪を経て、岐阜県北部の飛騨古川という地域で株式会社「美ら地球」を興している。「なにげない里山の日常」を売りに、サイクリングなどのツアーにやってくる外国人観光客の数は毎年数千人に及ぶ。今日やたらめったら取り上げられているインバウンド向け事業の先駆け的存在。
重層的な人間関係
地方での人間関係は、都会よりも重層的です。役所の職員は、同時にご近所さんであり、青年会の会員であり、神社の氏子であったりする。何らかの課題があったとしても、そうした重層的な人間関係の中で、何となく問題が解決していくこともある。
(第二章「日本の田舎は世界に通じる」)
重層的という言葉は『都市と野生の思考』にも出てきた。山田氏は奈良県出身なので、自らの地元と異なる田舎を事業のフィールドに選んだ(というより知人の紹介によって結果的にそうなったみたい)。よそ者として田舎に入るということは簡単ではない。山田氏も「帰れ」と拒絶された状況から根気強く何度も通い、やっとそこでの生活を認められるようになった。そしてその地域で重層的な関係性を築きながら、下記のことを書いている。
小さなコミュニティにおいて、時には正しさや合理性より好き嫌いが意思決定を左右したり、自身の意思よりも地域の関係性が重要視されたりすることもあるといった、地方社会の現実を深く深く理解する機会となりました。
(第二章「日本の田舎は世界に通じる」)
これぞまさに地方社会の現実。親戚やご近所との付き合いを大事にしすぎるくらい大事にする。これは大事にしていないと井戸端で噂されるというネガティヴな側面も持っていて、よくも悪くも狭い環境の中で皆が繋がっている。
世界の田舎をクールに
現在の日本では、今の世代のことだけでなく数世代先までのことを考えなければ、「危機感」という概念を持ちにくい。
(第六章「日本と世界の田舎をクールに」)
山田氏は「美ら地球」のミッションを下記の3つに大別している。
1.「飛騨をクールに!」
2.「日本の田舎をクールに!」
3.「世界の田舎をクールに!」
飛騨をクールにの部分は本著にて事例が詳細に紹介されている。その上で日本の田舎をクールにする方法として、「インバウンド・ツーリズムを中心とした新たなツーリズムの創出に寄与するコンサルティング分野と、それらに従事する人材を育成する教育・研修分野(p165)」という二つの柱を立てている。そしてその視点は講演などによって海外へも広がりをみせているとのことだ。
地方出身者であればちょっと郊外に出て畑が広がっている風景を見ると懐かしさを感じてしまうように、田舎の原風景に大きな差はない。つまり田舎の風景や日常を売りにするツーリズムは理屈上他の田舎でも再現可能だ。もちろんそれは簡単な話じゃなくて、アクセス面や周辺の環境、その地域に古くからある慣習など特有の障壁もたくさんある。だからといってなにもせず放置していたらその地域に未来はない。
上記の引用にも出ているが、数世代先のことまで考えて物事を行うのは地方創生に限らず大事なことだ。大事なことだけど、なかなかそこまで考えが及ばない。及んで自分の子や孫の世代までじゃないだろうか。僕だってそう。みんなまずは自分のこと、そして次に身の周り、だと思う。その意識を変えるのはむずかしい。
結び
前回紹介した『都市と野生の思考』が対話によって様々な今日的テーマの風呂敷を広げていく本だとするなら、この本は実践によってそのテーマの中の一つでもある「地方創生」の風呂敷を畳んでいく本。おもろいことをやってみなはれという京大スピリッツを実際に行動に移した様子が記されている。
世界遺産や観光名所がなくても、何気ない日常を別の切り口で捉えることで特別な景色にすることができる。それは外国人観光客相手だけでなく、疲れた都市生活者にも魅力を感じさせることはできないだろうか。どうやったら魅力に思ってもらえるだろうか。
思考vol.4 〜つらみ〜
ブログ徘徊の中で、面白い記事を見つけた。
勝手に引用していいものかどうか迷った挙句、勢い余って勝手に引用。
ごぐたんさんごめんなさい。
グラフがゆるくていい。いい、ゆるいグラフ。
このグラフを眺めながら会社勤めしていた頃を思い出した。
入社して最初に配属されたのは毎日定時上りの部署だった。僕だけじゃなくて、そこにいた全員が決められた時間になったら帰るホワイトオブホワイトな職場。アフター5は自分の時間が約束されてプライベートも充実!まさに文句なしの環境だった。
そんな環境で日々平和に過ごしていたが、ある日どうしてもその日に提出しないといけない書類があり、残業をすることになった。といっても普段より2〜3時間仕事が終わるのが遅くなっただけなのに、その日のことは今でも覚えている。なんなら夜食買いに行った。そしてきっちり20時に帰った。今思えば大げさ極まりないが、その時は20時でも灰色になるくらいつらみのメリハリがついていたのだろう。お恥ずかしい。
その後異動にてホワイトオブホワイトな環境から一転、残業が当たり前な部署に配属になった。事前に外部からその部署のことを見ていたので覚悟はしていたつもりだったが、最初の数ヶ月は地獄の日々だった。そうはいっても22時前後には帰れてたので世間的に見ると軽めの地獄だが、こういうものは相対評価すべきじゃない。自分が辛けりゃ辛いでいいと思う。
そんな生活の中でも、たまに20時頃に帰れる日があった。まっすぐ帰るのがもったいない気持ちになり、ソワソワしながら誰かに声をかけてみたり、買い物に行ったり、家でDVDを見たりしていた。ホワイト部署にいた頃には絶対に感じなかったはずだが、その時の自分は20時から寝るまでの間には無限に時間があるように思えた。時間を大切に思うのは悪いことじゃないかもしれない。でもやっぱりそういう日が続くのは疲れた。
人間は慣れる生き物。つらい生活も毎日繰り返しているうちに体に馴染んでしまう。馴染んでしまうというか麻痺してしまうというか。そして一旦馴染んでしまうと自分にかかっている負荷になかなか気づけなくなる。そして知らず知らずのうちにつらみが蓄積されている。メリハリをなくすことはストレスを感じないために有効。間違いない。とはいえつらみを感じるセンサーは常日頃から鈍らせないようにしておかないと、あぶない気がする。
ごぐたんさんの言う通りつらみの総量は少ない方がいい。
残業はないに越したことはない。不労所得があればもう最高。
都市の泳ぎ方をゴリラに学ぶ
タイトルに「都市」とか「田舎」が入っている本をついつい買ってしまう。
まんまとやられている感は否めないものの、『都市と野生の思考』は面白かった。
はじめに
哲学者にして京都市立芸大学長の鷲田清一と、ゴリラ研究の世界的権威にして京都大学早朝の山極寿一による対談。
旧知の二人が、リーダーシップのあり方、老い、家族、衣食住の起源と進化、教養の本質など、さまざまな今日的テーマを熱く論じる。
(あらすじより)
都市とは言い換えるなら文化や文明など、人類の知の結晶。野生はその対極にあり、言い換えるまでもなくゴリラ。ゴリラ以上の上手い喩えが思いつかない。それほどゴリラという3文字の単語が持つ破壊力はすごい。迂闊にゴリラというあだ名を友達につけないようにみんなも気をつけよう。
人類が抱えている種々のテーマについて、これまでの人はどう考えてきたかという哲学的観点(都市の思考)と人類と違う歴史を辿ったゴリラ(及び類人猿)はどうか?という視点(野生の思考)をベースにして繰り広げられる対話。帯に「知の饗宴!」とあるが、まさしくその通り。共演でも競演でもなく、饗宴している。
ネット社会のコミュニケーション
ネット社会では、いざとなったら簡単におりられるというか、リセットできるとみんな思っている。人間の集団でも家族以外は簡単にリセットできるのが現状です。
(第一章「大学はジャングル」より)
今日の都市はネット社会。そう考えてまず間違いない。技術は日々発達し、産業だけではなくもはやコミュニケーションの中心にも科学が介している。そのようなネット社会について鷲田氏は上記引用のように説明し、その上で「そういう社会はやばい」と話している。僕らが日々呼吸レベルで使うようなヤバイと違って、言葉に重みがある。
これに関して山極氏は「対面していれば伝わるニュアンスが、ネットだと抜け落ちてしまう。」と述べている。確かにメールを読んでも画面の向こうで相手が喜んでいるか怒っているかはわからないし、Instagramを見てもその人が本当に幸せかどうかわからない。そしてそういった感情は会えばなんとなくわかる。「相手と面と向かっての付き合いをしていない」ことが、簡単にリセットできると思い込む状況を作り出していると山極氏は言う。おっしゃる通り!
グローバル社会のコミュニティ
コミュニティは、そこに暮らす人たちが根っこで絡み合うことで成立するものです。何か困ったことがあっても、以前ならたいていは近所のネットワークで解決できた。(中略)あの人に頼んだらいいという、複数の人による重層的なネットワークが機能していた。
(第二章「老いと成熟を京都に学ぶ」)
根っことは伝統や歴史、文字通りその地域に根ざしているものである。そして地方ではグローバリゼーションによってその根っこが破壊されている。巨大なショッピングモールの進出によって潰れてしまった地元のスーパーや商店街は田舎ではよく見かける光景だ。昨今コミュニティがどこかしこで注目を浴びているのは、どこにも根ざす事ができなくなった個人が増えた結果だろう。
コミュニティにおいて、重層的である事は欠かせない要素だと思う。集団の中でたとえAという立場を失っても、B.C.D...と他の役割が残されている事で、個人が特有の存在と成り、組織との繋がりが保たれる。油断したらすぐに誰かに取って代わられる時代において、その安心感は何にも代えがたい。
アートという可能性
鷲田 生きる力をつけるために、コミュニケーション力をつけようみたいな話になりがちなんですが、そこでアーティストならブリコラージュする。つまり、あり合わせのものを使って自分で道具までつくり、なんとかするわけです。
山極 言い換えれば、自分の生活を、自分の感性と力で築き上げていく能力ですね。今のようにすべてが既製品で、人から与えられたものだけで暮らしていたら、生きている実感なんてなくなって当然です。自分では何もつくらず、選ぶだけなんだから。
(第四章「アートと言葉の起源を探る」)
ここまでにあげたコミュニケーションやコミュニティに関する危機への対処として、本書ではアートを取りあげている。それはコミュニケーションが簡単にリセットできないということを学ぶ手段になり、コミュニティ内で共感を生むための手段になる。
アートを生み出す人のことをアーティストと呼ぶ。上記鷲田氏の引用にあるようにアーティストはあり合わせのものを使い、自分が感じたものをアウトプットしている。作品や事象にインスピレーションを受けることによって、新しい作品が生まれる。でもそれはアーティストにだけ求められる能力じゃなくて、僕らの日々のコミュニケーションにも欠かせない。万物を知らない以上、ある程度の想像と創造は必要である。そう言ったセンサーが現代の暮らしの中では衰えていると鷲田氏は心配している。その結果、「選択肢が限られている上、選択肢に入らないものへの想像力が鈍ってしまう。(鷲田氏)」状態になり、結果「世界がクローズドになる」危険性があると言及している。
今養うべきセンサー
今の世の中はわからないものだらけじゃないですか。科学の世界だけでなく、社会情勢も、時代の流れも、本当に複雑さを増してきている。何が決定要因なのかわからない状況の中で、不確定要因の相互作用みたいなものだけで、物事が決まっていく。こういう複雑性を増す社会の中で生きていくには、「ここを押さえておかないといけない」とか「ここらあたりが勘所や」とか「こっちに行くとやばい」などどいうアタリをつける感覚が非常に重要になってくる。
(第八章「教養の本質とは何か」)
長い引用になった。上記は本書では「センス」という単語でまとめられている。ゴリラと並ぶインパクトのある3文字だと思う。わかるようでわからないし、わからないようでわかる。またこれは「直観力」という言葉でも言い換えられている。センスよりは馴染みやすい。何か予期せぬことが生じたときの瞬間的な閃きがこれからを生きていく上で大事な能力になってくるとのことだ。
結び
ネットやSNSによって自分の意見を発信することが簡単になった。というかなりすぎたと思う。いやそれは悪いことじゃない。むしろうまく使いこなせば色々な可能性を僕らに与えてくれる社会にもなった。とはいえ匿名の社会では人々の重層的な信頼関係は生み出すことはむずかしい。そんな社会をどう生きていくか、そのためには何が必要か。そういうことを色んな方向から示してくれる良書だった。あとゴリラについてもちょっと詳しくなれた。今なら愛情を持ってゴリラというあだ名をつけることができるかもしれない。
なお、直観力を磨く手段として本書では「山に行くこと」をあげている。登山が趣味の方、おめでとうございます。僕はそうじゃないので何か別の方法を考えます。
思考vol.3 〜時間泥棒〜
kindleを買った。
「読書は紙派!」というわけでもなかったが、田舎に移って近くに大きな書店がないのがここまでストレスになるとは思わなかった。あとkindle端末での読書が全くストレスにならないということも知った。
本屋で欲しい本を見つけたらその場で電子書籍化してるかを調べて、あればそっちを買うということを一時期やっていた。紙本が増えて部屋を圧迫するのを抑える目的だったが、そうやって買った本は結局ほとんど読んでない。しかも視界に入らないから買ったそばから忘れていく。本末転倒。本だけに。なんてことはさておき、もういつ買ったのかも記憶にない堀江貴文氏の「多動力」を読んでいた。覚えていないが、とはいえ購入したのは自分。嗜好に沿った本がライブラリに入っている。
この本を読んだ人ならわかると思うが、各テーマの終わりにやってみよう!というリストが書いてある。別にそれを読んで今これをやってみているわけでもないけれど、その中の一つがとてもひどく刺さったので誰にというわけではないが紹介したい。
□あなたが生み出しているサービスやプロダクトは「人の時間」をどれだけ奪うだろうか?
『多動力』堀江貴文
現代人は無駄を嫌う
このやってみようが挙げられている項のタイトルは『君の名は。』がヒットした理由。書評じゃないので詳細は割愛するが、その根底には現代人は無駄な時間が我慢できないことを挙げている。効率化だとか生産性だとかそこらじゅうで言われる今。自分の時間についての意識はとても高くなっているように感じる。僕だってそうだ。1日24時間の限られた中でなるべく多くのことを吸収したいし、発散したい。なんて思いながらの日々の二度寝がやめられないから我ながら本当に不可解なのだが、まぁそれも愛嬌。とはいえそうやって吐き出されたアウトプットが、どれだけ他人の時間を奪っているかについて、どのくらいの人が意識しているだろうか。
自分だけじゃなくて、目の前にいる誰かの1日も当然24時間しかない。そして自分の吐き出したものは、読まれた時点で少なからずその人の時間を奪っている。当たり前のことかもしれないが、そんな当たり前のことすら意識していないアウトプットはこの世の中に溢れかえっている。このブログがその典型だ。ここまで読んでもらえたことに申し訳なさしかない。申し訳なさしかないがこの後も引き続きおつきあいいただきたい。
奪われてもいるし、奪ってもいる
これは個人的な見解というかもはや偏見だが、〇〇のために書きました!というのが見え透いている文章はなんだか面白くない。いやマーケティングにおいてターゲットを明確にするのはものすごく重要な事だし、実際ターゲットがしっかりしている人の発言は確かにブレてない。でもなんというか素地に幅がないのにブレてないからあっさりしすぎてて読み物として満足できないものが多いような気がする。売り上げやアクセス数を稼げたら良いのかもしれないが、それに偏りすぎているというか。とはいえ一方で読んでもらえないことにはそもそもアウトプットをする意味もないし、ちょうど良いバランスを保つのはとても難しい。理想だけで飯が食えたら誰も苦労をしない。少なくとも今の自分は誰かの時間を奪っているという感覚が激しく欠落している。
文章力だけで人の興味を惹くのは至難の技だ。できている人のブログを読むとなんとなく簡単そうに見える。でもそれはただその人が僕らにも伝わるような文章で書いてくれているだけで、実際に自分で書いてみるとまったくできない。できなさすぎて面白い。本当に面白い人は箸が転げただけでも面白いコンテンツを作るし、凡人は箸が転げたぐらいじゃそもそも記事を書こうとも思わないだろう。
時間やあれこれ思いを馳せていたら、ミヒャエル・エンデの「モモ」という本に出てくる時間泥棒のことを思い出した。時間泥棒は大人たちの時間を奪っていく存在で、奪われた大人たちはゆとりのある生活を失ってしまう。児童文学だけど、むしろ大人になってから読んだ方が響く作品で、この間も読み返して自分がいかに時間泥棒に時間を奪われて余裕をなくしていたかを思い知り、日々を省みた。でも被害者ヅラばかりしてもいられない。自分自身が現時点ですでに誰かの時間泥棒になっているということを、頭に入れて発信していかないといけない。というただの壮大な自戒をお送りしました。
結び
まずはここまで読んでもらえたことに心からお礼を言いたい。そして自戒で締めたことに心からお詫びを言いたい。ありがとうとごめんねを繰り返し僕らは人恋しさを積み木みたいに乗せていく。桜井和寿氏の言葉選びのセンスは恐ろしく素敵だ。
他人が発信しているコンテンツを見て、自分で調べるよりも簡単に物事が解決してしまうことがある。そういうときの時間は奪われたというよりむしろその人によって与えられている。別にそれは名著に限らず、ちょっとしたブログ記事を読んでなるほどと思った時点でそう。単純な時短だけじゃなくて、考え方とか雑談でも情報でも息抜きでも、少しでも自分のプラスになった時点で時間を奪われたとは思わないだろう。少なくとも僕は思わない。そしてその価値提供の繰り返しで書き手と読み手の信頼関係が生まれていく。少なくとも僕はそう思う。
散々書いてきてこんなまとめ方をするのもだが、これだけ情報の受発信が簡単になった時代、「奪う奪われる」の世界を知った上で、そこからどうやって離れていくかを考えないといけない。そうやって誰かと時間を共有することができたら、とても素敵だと思う。それも効率とか生産性とかじゃないところでそういう繋がりがつくれたら面白い。むずかしいけどおもしろい。
ということに気づけたのもきっとkindleを購入したおかげだろう。(宣伝下手)
孤独について書くことで文才のなさを知る
文章を書くときや考え事をするときはなるべく一人の環境をつくるようにしている。
最近は一人の時間が増えたので、必然的にパソコンに向かう時間が増えた。良いことなのか悪いことなのか。
糸井重里氏のonly is not lonlyという言葉が大好きだ。書籍だったかほぼ日のサイトだったかは忘れたが、初めてこの言葉を見たときにああ世の中にはこんなに美しい表現があるのかと、感動のあまり溜息を零した。周囲と物理的な距離をとって自分の時間が増えた今、改めてこの言葉の持つ力がなんとなくわかったような気がしないでもない。そんなことを考えながらBUMP OF CHICKENを聴いていた。
孤独を知ったからまた出会えた
孤独じゃない
『オンリーロンリーグローリー』
最近はユグドラシルというアルバムに毒されている。引っかかる曲は日によってまちまちだが、今日は2曲目に収録されているオンリーロンリーグローリー、特に上記引用箇所の刺さり方がすごい。糸井氏の言葉が頭に浮かんできたのも多分そのせいで、他にも「一人の」とか「孤独な」とかそういった類の語彙が引き出しの中からぴょんぴょん飛び出してきている。
AのおかげでBを知る
熱が出たりすると気付くんだ
僕には体があるって事
鼻が詰まったりすると解るんだ
今まで呼吸をしていた事
『supernova』
AがあったからBに気づくという構図をBUMPの歌詞でよく見かける。おおよそ突発的に生じたであろうAという状況をBという発見に昇華してしまう、藤原基央の天才的発想転換能力。その思考回路がただただ羨ましい。欲しい。
そもそも孤独とは?
話をオンリーロンリーグローリーに戻す。孤独を知ったから「また」出会えたと藤原は歌う。この「また」の2文字が付くだけで意味合いがガラリと変わってくる。孤独じゃない状況とは前にも遭遇し、そこから一旦離れて孤独になっている。そして再び孤独じゃない場所に帰ってきた。この孤独を知って戻ってくる過程に人が人を大切に思うヒントが転がっているような匂いがした。
これはもう個人的な見解だけど、人は一人では孤独になれないと思う。余程のことがない限り、生きている中で必ず誰かと関わる。今これを目にしている時点で関わっているし、そうじゃなくても部屋から出たら誰かに会う。少しずつ繋がって関係性ができていく。家族や、友達、恋人。そういった相手がいて、そこから離れることで初めて寂しさや怖さを知っていく。誰とも会わなければ、そもそも孤独になることすら不可能だ。なんとなく一人が寂しいと思うのは、一人じゃない時間を覚えているからこそなんだ。
藤原基央的転換を用いるなら、みんながいるから孤独を知る。うーん、いまいち。
孤独を知ることは決して悪いことじゃない。むしろものすごく健全な感情だと思うし、ポジティブに受け入れていきたい。孤独を知っているからこそ誰かといる時間の有難みに気づくことができる。それこそ宝石や魔法のように。そしてそんな有難みが記憶のどっかにあれば、きっと一人でいても大事な人の存在をいつも忘れずにいられる。そうなれたらどこにいても怖くない。
また孤独な気持ちが全くなければ、そもそも人は集まらない。言葉を変えれば人が集まる場所には必ず何かしらの孤独がつきまとっている。その孤独をうまくコントロールできたら面白い環境ができる気がするし、そんな環境をつくることが孤独に対する処方箋になり得るんじゃないかなとほんのり思う。試してないからわからないけど、試してみたい。
田舎のシャッター街はTwitter映えの宝庫
この間、市役所に行くついでに市内をちょっとぶらついた。
家と市役所の間にちょっとしたアーケードがある。平日の昼間だったからか人通りもまばらで、平日の昼間なのに店舗のシャッターは基本閉まっていた。小さい頃から歩いていたのでちょっぴり寂しい。田舎の現状を目の当たりにしつつ、おセンチな気分で歩いていたが、それにしてもところどころちょっとおかしい。
地元の潰れた映画館から逃れられないちびまる子ちゃん。ただただ怖い。 pic.twitter.com/7UP9iSAw8v
— シモダヨウヘイ (@shimotch) 2018年3月2日
百聞は一見にしかず。こんなちびまる子ちゃんをお散歩中の小さい子供が見てしまったら最後、怖くて映画館に入れないじゃないか。全国にある八木館に連れて行かれようもんなら大号泣間違いない。悪い子は八木館に連れていくぞという脅しもそこそこ通用する気がする。家の近くに八木館があればだが。
よく見るとまるちゃんの右手がない。鼻周りの異常な汚れ。満面の笑み。狂気が滲み出ている。
この八木館という劇場、後から検索してみたら廃墟検索地図にも出てくるれっきとした廃墟だった。余計に怖い。調べなきゃよかった。その場に立ってると流れてもいない世にも奇妙な物語のテーマが聞こえてくるような気さえする。
人生劇場。なんか深いことが書かれているが、恐怖でしかない。
奇妙な物語の主人公にはまだなりたくないので、足早にその場を離れた。
端から端まで歩いたが、至る所にフォトスポット(違和感)があって都度足を止めて写真を撮った。相変わらず人通りは少ない。助かる。 そして僕の写真フォルダにはたくさんの違和感がおさまった。2年後、あらためて写真の整理をした時になぜこんなものを…と呆れてしまうかもしれないが、それはその時の自分が処理したらいい。知ったこっちゃない。
田舎の音楽教室は控えめで好感度が高い。
商店街を抜けると城が見えます。
ちょっと前にあべのハルカスでやってたジブリの立体建造物展で目にした、背景についての説明のことを思い出した。ジブリ作品の背景はその作品の上映時期からちょっとだけ昔にずらして描いている。うろ覚えだけど多分そんなことを書いてた。背景のズレによって、作品全体にちょっとした懐かしさを生み出しているとのこと。全く意識してなかったが、言われてみればジブリの映画からはなんとも言えない懐かしさが滲み出ていて、惹きつけられる。言われたからそう思っただけかもしれない。
違和感は生活とのズレの中から生まれる。その違和感を見つけるのには一定の観察力や感受性を必要とする。都会にいると何もかもが予定調和で、よっぽど意識して隅々まで目を凝らさないと拝めない。観察力や感受性を研ぎ澄ますには、常にアンテナを張り巡らせていないといけないし、大変だ。けど田舎は違う。大量の違和感が向こうから手招きしている。面白いものを見つけるのにセンスなんて必要ないし、そこかしこに転がってるから目を開けてるだけでいい。面白いもの見つける能力が欲しかったら田舎に行こう!もしくは廃墟に行こう!
それを何人かでやってみたらもっと面白そう。
はじめに
はじめに、でもなんでもないですが、
簡単に自己紹介をば。
書いてる人
シモダヨウヘイ。表記をカタカナにしているのはなんとなく。
大学進学を機に地元長崎を離れて関西入り、卒業後大阪で就職。新卒から8年間勤めた不動産系の会社を2018年に退職して、現在は九州(主に福岡)でひっそりと生活。
起きている時間のほとんどは眼鏡着用。視力はとても悪い。無人島に何か1つだけ持っていけるならという質問の回答は必然的に眼鏡、選択肢はない。
座右の銘
ぬるいくらいがちょうどいい。
好きなもの
もっとも多感な時期をBUMP OF CHICKENの音楽と共に生き、結果のちの人格形成に大きな影響を与えられる。藤原基央氏を崇める。羽海野チカ先生の漫画も好き。3月のライオンでBUMPとコラボした時には嬉しさのあまり自宅で舞う。
本(言葉)を読むのが好き。お酒を飲むのも好き。
どちらも用法次第で毒にも薬にもなる、そういうところが好き。
このブログで書きたいこと
今興味があるのはマイクロコミュニティだったりサードプレイスだったり。このあたりを大きなテーマには掲げるが、基本的には書きたいことを書きたいように書く。音楽(BUMP OF CHICKEN)とか漫画とかお酒とかについても触れていきたい。タイトルに「思考vol.◯」が付いているものはまだ生煮えの文章なので、助言なりヒントなりをもらえると喜びます。
さいごに
エネルギーを内包しすぎて爆発しないように、熱冷まし感覚で始めたこのブログ。自身を適温に保てるように発散しながら、その放った熱が誰かに届けばこれ幸い。
よろしくどうぞご贔屓に。